御事歴

本殿・相殿
大山祗神(オオヤマズミノカミ)は皇祖天照大神(アマテラスオオミカミ)の御孫、瓊ヶ杵尊(ニニギノミコト)の皇后にお立ちになった木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の父神で、瓊ヶ杵尊の国土経営の大業を完成されますまでに、一方ならないお力添えをされた神であります。すなわち農業山林鉱産の守護神であり、又航海の神として古くから信仰されておられますが、特に酒解神(サカトケノカミ)とたたえておられるほどに、酒造の守護神としての尊崇を受けられた神であります。
瓊ヶ杵尊は天照大神の御意志を奉じて此の国土にお臨みになり、大いに開発に尽くされ国の創業を固められ、御子彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)もまたその大業をお受け継ぎになりました。
彦火火出見尊は神武天皇の御祖父君に当たりますが、瓊ヶ杵尊と彦火火出見尊が大若子神・小若子神と称えられておいでになることから考えますと、酒解(サカトケ)すなわち醸造のわざをお始めになりました、大山祗神や木花咲耶姫命と同じ御神徳をそなえておいでになったようで、若子(ワクコ)は発酵を意味する名称であることは言うまでもありません。梅宮神社が古来醸造の祖神とあがめられていますのは、まことにもっともとな事と申すべきであります。
木花咲耶姫命は瓊ヶ杵尊の皇后となられました、才色兼備の御方で、一夜で御懐妊の御子の疑いを晴らす為に無戸室(ムツムロ)の御産室に火を放ち燃えさかる中で彦火火出見尊を御安産になり、次々と御子を御安産になりました方で、子孫繁栄・授子安産の守護神として崇敬を受けておられます。
嵯峨天皇は、桓武天皇威以来の平安京造成にもっとも尽力され、文化史上重要な位置を占める弘仁文化時代を築きあげられた御方であります。檀林(ダンリン)皇后は橘嘉智子(タチバナノカチコ)と申し上げ、嵯峨天皇をお助けになり、唐の禅僧義空を招いて我が国最初の禅寺である檀林寺を興して(現在天竜寺の所在地にあった)、奨学・養老・施薬の施設をととのえて、国民の慈母としての尊崇をお受けになったのであります。
仁明(ニンミョウ)天皇は、梅宮大社本殿の神々に祈願をされて、檀林皇后がその神威を得て御加護の下に御懐妊御安産になった御方で、嵯峨天皇の皇子であります。特に天皇を仁明とおたたえ申し上げますのも、その御仁政の尊さをお慕いしたからであります。天皇は又音楽芸能に秀でられ、横笛の名手であり、又我が国最初の作曲者でもあらせられ、その作曲された曲名は西王楽、長生楽、夏引楽、夏草楽の四曲で、西王楽が現在まで伝わっていると日本音楽の歴史に明記されてあります。
橘清友(タチバナキヨトモ)公は、檀林皇后の父君に当たられ、太政(ダイショウ)大臣を贈られた智仁兼備の大政治家で、大学者でありました。摂社若宮社のの御尊であります。

摂社
若宮社(本殿の向かって右側)の御祭神橘諸兄(モロエ)公は御生前中に正一位の極位に上られました最初の御方で、葛城王(カツラギオウ)と申し、敏達(ビタツ)天皇の御子孫に当たられますが、御母三千代夫人の逝去に際して、聖武天皇が贈られました橘の姓をそのままお受け継ぎになって臣下に下られたのであります。当時の最高官位左大臣として聖武天皇に仕へ天平の治政に大功を立てられた方で、井手に住まわれたので世に井手の左大臣とも称された。橘氏の始祖でもあります。
護王社(本殿の向かって左側)の御祭神は橘氏公(ウジギミ)公と橘逸勢(ハヤナリ)公であります。橘氏公公は檀林皇后の兄に当たられ、嵯峨天皇の右大臣として仕えられ治世の上に大功を立てられ、更に我が国最初の学校、橘学館院を創立して(二条城の近くに遺跡の碑あり)学問の興隆に尽くされた御方であります。
橘逸勢公は檀林皇后の従兄弟に当たり、弘法大師(空海)と共に遣唐使として唐に渡り、専ら書道の研修に励み帰国後空海と共に嵯峨天皇の側近に仕え、嵯峨天皇と弘法大師と共に三筆としてたたえられ、今日に至る迄書道の始祖先達として、その功業を仰ぎ讃えられている方であります。三蹟として名高い小野篁(オノタカムラ)は逸勢公の教え子であります。
此の様に護王社の御祭神は、共に我が国学問の興隆の基を築かれた方々であり、比類無き学問の守護神であります。
「影向石」は三石とも云い護王社の西側に在り紀州熊野より三羽の烏が飛来して石に化したとの伝説がある石で、石を御神体として祀り(岩くら)紀伊熊野の三社をお祀りしているのであります。